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マルコム・X、米国

 

 

私はムスリムであり、これからもずっとムスリムである。私の宗教はイスラームである。

マルコム・X

幼少期

マルコム・Xはマルコム・リトルとして、1925519日にネブラスカ州オマハで生まれました。彼の母親ルイーズ・ノートン・リトルは8人の子供を抱える多忙な主婦、そして彼の父親アール・リトルは歯に衣着せぬバプティスト教会の牧師で、黒人民族主義者マーカス・ガービーの熱烈な支持者でした。しかしアールの公民権運動は白人至上主義者団体であるブラック・リージョンによる死の脅迫を受け、マルコムの家族は彼が4歳になる前に2度の引越しを余儀なくされました。そしてリトルによるブラック・リージョン回避の努力も虚しく、彼らが住んでいたミシガン州ランシングの家は焼き討ちに合い、その2年後マルコムが僅か6歳の時には、トロリー(市街電車)の線路上でアールの切断された遺体が横たわっているのが発見されました。一方ルイーズは彼女の夫の死から数年後、神経衰弱で精神病院への入院を余儀なくされます。彼女の子供たちは養子に出されたり、または複数の孤児院に預けられたりして離ればなれになりました。

マルコムは頭脳明晰な学生で、学年トップの成績で中学校を卒業しました。しかし彼のお気に入りの教師から、彼の夢である弁護士への道は黒人には現実的でないと告げられて以来学校への興味を失い、15歳で中退してしまいます。街の生き方を学んだマルコムはギャング、泥棒、麻薬密売人やぽん引きなどと親しくなり、20歳の時には窃盗の罪で有罪となり、27歳になるまで刑務所で暮らしました。刑務所の中で彼は独学に励みました。そして獄中でネーション・オブ・イスラーム教団について知り、その教祖イライジャ・ムハンマドの教えを学び、それを受け入れました。そして1952年、彼は以前とは別人さながらになって出所します。

ネーション・オブ・イスラーム教団

マルコムは出所後デトロイトへと赴き、ネーション・オブ・イスラーム教団の活動に参加し、イライジャ・ムハンマド自身から手ほどきを受けました。マルコムの熱心な奉仕によって組織は全国規模となり、彼自身も世界的な著名人となりました。彼はテレビや一流雑誌のインタビューを受け、アメリカ全土の様々な大学やフォーラムで演説して回りました。彼の言葉には力がみなぎっており、黒人の苦境や白人による激しい迫害を巧みに表現しました。ある白人が南部のある大学が黒人の新入生を受理したことに関する事実に言及した際には、マルコムは怒りを込めてこう反応したものです:

私がスベると、番組の主催者は釣り餌に魚がかかったかのようにこう言う:「ああ!マルコム・Xよ、あなたはそれがあなたの人種の飛躍であることを否定出来ないでしょう!」と。

そして私は釣り竿をぐいと引く。私はどこに行っても公民権の向上に関することを聞く。どうやら白人たちは黒人がハレルヤ!と叫んでいなければならないのだとでも思い込んでいるようだ。400年間に渡り、白人たちは黒人の背中にナイフを突き刺したままの状態だった。そして今、彼らはそのナイフを抜こうと半分ほど引っぱり出しただけなのだ。黒人たちはそれに関して感謝すべきだろうか?例え白人がナイフを完全に引き抜いたとしても、そこに大きな傷を残すことに変わりはないのだ!”

マルコムの言葉にはたびたびアメリカにおける黒人に対する不正への非難が含まれていましたが、ネーション・オブ・イスラーム教団におけるそれ同等の人種差別的信条は、白人たちが彼に対して同調し、手助けすることを妨げていました。彼は白人こそが悪魔であり、イライジャ・ムハンマドが神の使徒であると12年間に渡って説き続けていたのです。その後彼は完全に変わり、アメリカ人に対して重要なメッセージを数多く残しましたが、不幸にも現在に至るまでマルコムのイメージの大半はこの時期の彼に焦点を当てられているのです。

真のイスラームへの改心

1964312日、ネーション・オブ・イスラーム教団内部からの嫉妬、そしてイライジャ・ムハンマドによる性的スキャンダル発覚により、マルコムは自らの団体の立ち上げを意図し、ネーション・オブ・イスラーム教団を去りました。その際に彼はこう語っています:

“私は自分が誰かに支配されたまま、眠りの中にあったように感じている。しかし今自分が言っていることは、本当に自分の口から出ているのだと感じている。以前は誰かによる、誰かのためのものであったが、今や私は自分自身の考えを持っているのだ。”

マルコムがイライジャ・ムハンマドのネーション・オブ・イスラーム教団を去ったのは、彼が38歳の時でした。彼は当時を思い出し、こう語っています:

“私が大学などで行った講演後の非公式な集まりでは、通常アメリカ在住者か留学生、または旅行中の、自分たちをアラブ人とか中東人、あるいは北アフリカ系ムスリムと呼ぶ、白い肌をした人々が私の前に集まって来た。私の白人に対する非難にも関わらず、彼らは私が自身をムスリムだと主張していることに真摯さを感じ、もし私が彼らの言う真のイスラームに触れれば、私はそれを理解し、受け入れるだろうと感じたと言うのである。私はイライジャの追従者として、これらの発言を自動的に却下した。しかしそのようなことを何度か経験した後、熟考の末、私は自分にこう問いただした:もし人が宗教に関して真摯であれば、その宗教の知識を広げることに関して立ち止まるべきではない、と。

私が出会った正統派ムスリムたちは次から次に、私がマフムード・ユーセフ・シャワルビー博士に会って話すことをしきりに促したそしてある日、私とシャワルビー博士は、一人の新聞記者によって引き合わされた。彼はとても誠実な人物だった。彼は、私のことを新聞やテレビで注目していたと言い、一方私は彼のことを聞いていたと言った。そこで私たちは1520分程会話をした。私たちは共に次の予定が入っていたためにその場を去らなければならなかったが、彼の語った理論は私の頭から離れなかった。彼が言ったのは、「人は自分の兄弟に対し、自分自身に望む同じことを彼に対しても望むようになるまでは、完全な信仰を持たないのである」というものだった(預言者ムハンマド-彼に神の称賛あれ-の言葉)。

巡礼の影響

マルコムは更に、ハッジに関してこう述べています:

ハッジとして知られるマッカへの巡礼は、全ての正統派ムスリムが可能な限り、一生に一度は果たすべき義務である。

聖クルアーンはこう述べている:

この(アブラハムによって建てられた神の)家への巡礼は、そこに赴ける人々に課せられたアッラーヘの義務である…”(クルアーン 397

人々に、巡礼〔ハッジ〕するよう呼びかけよ。彼らは歩いてあなたの許に来る。あるいは、どれも痩せこけているラクダに乗って、遠い谷間の道をはるばる来る。(クルアーン 2227

ジェッダへと向かう空港の中では、何千人もの人々が全く同じ装いをしていた。例えどこかの国王や乞食がいたとしても、これだと他の人々と見分けがつかないであろう。私の友人はこっそり、とある権力者が私たちの近くにいるのを合図したが、彼は私と全く同じものを着ていた。このような格好の中、我々は断続的に“ラッバイカ!(アッラーフンマ)ラッバイカ(主よ、あなたの御許に馳せ参じます!)!”と声を張り上げた。飛行機では肌の白い者も黒い者も、茶色い者も赤い者も黄色い者も、青い瞳も金髪も、そして私の縮れた赤毛もが皆同じ場所に込み合っていたのである!皆で同じ神を称え、お互いに敬意を表していたのだ…

それを機に私は白人を再評価し始めた。私が一般的に言われる白人というものを理解したのは、第一に特定の態度や行為を示し、肌の色自体は二次的なものに過ぎなかった。アメリカでは白人という言葉が、黒人とその他全ての有色人種に対する特定の態度と行為を示す者たちを意味していたのだ。しかしムスリム世界で白い肌の色をした人々は、私がこれまでに見て来た他の誰よりも偽りなく親身になってくれた。あの朝は、私の白人の価値観に対する画期的な変革の始まりだった。

そこには何万人もの巡礼者たちが世界中から集まって来ていた。彼らは青い目をした金髪から黒い肌のアフリカ人まであらゆる人種から構成されていたが、我々は皆同じ儀礼を行ない、私のアメリカでの経験上、白人と非白人の間では決して起こり得ないと信じていた統一と同胞愛の精神を体現していたのだ… アメリカはイスラームを理解する必要がある。なぜならこれは社会から人種差別をなくす唯一の宗教であるからだ。私はムスリム世界を旅して回るにあたり、アメリカでは白人と見なされる容姿をした人々と出会い、話し、更には食事を共にした。彼らの心からはイスラームの教えによって、いわゆる白人の態度が取り除かれていたのだ。私はこれまでに一度も、このような誠実さと真の同胞愛が肌の色に関係なく、全ての人種によって実践されているのを見たことがなかった。

マルコムのしい米国像

マルコムはけます

“聖地で過ごした時間は、アメリカで黒人と白人の間で起こっていることに関し、精神的に更なる洞察力を養うことを可能にさせた。アメリカ黒人は、彼らの白人に対する人種的憎悪に関して咎められる筋合いはない。彼らはただ400年間に渡るアメリカ白人からの執拗な人種差別に反応しているだけなのだ。しかし人種差別がアメリカを自滅的な方向へと導いている中、私は彼らとの経験によって、大学で学ぶ白人の若い世代は壁に描かれたメッセージを見て、真実への精神的探求を始めるだろうと強く信じた。それは人種差別が必然的にもたらす悲惨な結末を避けるための、アメリカに残された唯一の道である。

今、いわゆるキリスト教徒白人社会して、世界非白人する搾取奴隷制度する最後機会えているのだとじているこれは神がファラオに対して悔悟する機会を与えたのと同じである。しかしファラオは頑なに、彼の圧制に対する正義を拒否し続けた。そして我々が知るように、神は最終的にファラオを破滅に追い込んだのである。

私はアッザム博士との、彼の邸宅での夕食を決して忘れない。彼と話せば話す程、私には彼の広大な知識の宝庫とその多様性が果てしなく思われた。彼は預言者ムハンマド-彼に神の称賛あれ-の子孫の人種的構成について語り、それがいかに黒人と白人のどちらも包括しているのかを示してくれた。彼はまた、ムスリム世界における人種問題は、西洋からの影響が大きい地域でのみ存在していることも明らかにしてくれた。そして彼は、肌の色に対する態度に基づいた相違は、西洋の影響の度合いに反映しているのだと述べたのだった。

唯一神の元における唯一の人類

彼は巡礼の最中、ニューヨーク・ハーレムに彼が設立した団体「ムスリム・モスク」の助手へ、何通かの手紙を書きました。彼はこの手紙をコピーし、報道機関に配布するよう指示しました。

"私は、アブラハム、ムハンマド、そして聖典に出て来る全ての預言者たちの家であり、またこの古代より存続する聖地において、あらゆる肌の色の人々によって実践されている歓待、そして圧倒的な同胞愛の精神をこれまで目の当たりにしたことがなかった。この一週間、私が身の回りから受けて来たあらゆる人種の人々による親切さには、すっかり言葉を失ってしまい、魅せられてしまった

あなたは私の口からこういった言葉が出て来ることに驚くだろう。しかしこの巡礼の中で私が見て来たこと、そして経験して来たことは、これまでの私の思考パターンを大きく変え、また以前の持論の一部を破棄させるものだった。それは私にとって難しいことではなかったのである。私自身が抱えていた確信にも関わらず、私は常に事実のみを捉え、新しい経験や知識を得ると共に、人生において現実を直視することに努めてきた。私はいかなる形の真実の知的探求においても求められる柔軟さ、つまり常に心を開いていることを心がけて来たのである。

“ムスリム世界でのこの11日間、私はムスリム同胞たちと共に同じ神に祈りつつ、同じ皿から食べ、同じ器から飲み、同じ寝床で寝た。ある者たちの目の色は真っ青であり、髪の色は金髪であり、肌の色は白のなかの真っ白であった。そして彼ら“白人”ムスリムたちの言葉、ふるまい、行為からは、ナイジェリアやスーダン、ガーナなどからのアフリカ黒人ムスリムと同じ真摯さが感じられたのだ。

我々は本当に同一(の兄弟)なのだ  なぜなら彼らの唯一神への信仰は、彼らの心から、行動から、そして態度から、いわゆる白人性が取り除かれていたからである。

“こうして私は、もしアメリカ白人が神の唯一性を認めるのであれば、人類の唯一性も認めることが出来るのではないか、と考えた。そして彼らの肌の色における“相違”による他者の評価や妨害、危害などもなくなるのではないか、と。

“人種差別はまるで末期癌の症状のようにアメリカを蝕んでいる。いわゆる白人“キリスト教徒”アメリカ人の心は、そういった致命的問題に対して有効であると証明された解決策を受け入れるべきである。もしかしたら、それは差し迫った惨事から間一髪でアメリカを救うかもしれない。人種差別による惨事はドイツにおいて、ドイツ人自身を破壊しているではないか。

“私はハッジにおいて、何に最も感動したかを聞かれた…私はそれにこう答えた:“それは同胞愛である!世界中から全ての人種、あらゆる肌の色をした人々が集い、一つになることである!それは私に唯一神の力を証明した…皆は一つになって食べ、一つになって寝た。巡礼の空気はその全てにおいて、唯一神の元の唯一の人類を強調したのだ。”

こうしてマルコムはアル=ハッジ・マーリク・アル=シャバーズと改名し、巡礼から帰国しました。彼は新たな精神的洞察力を携え、心燃やしていました。彼の中で民族主義の公民権運動家による闘争が、国際主義、そして人道主義の闘争に進化したのです。

巡礼後

白人記者たちは、アル=ハッジ・マーリクが彼らに関してどう思っているのか知るために取材を熱望しました。彼らにとっては、長い年月に渡って彼らに敵対していた人物が、突然身を翻して彼らを兄弟と呼ぶことは信じ難いことだったのです。これらの人々にアル=ハッジ・マーリクはこう言いました:

“あなたは私に‘あなたは白人を兄弟と認めるのか?’と聞いているのですか?私はムスリム世界で何を見、何を感じ、いかに私の思考が拡げられたかを書きました。私が書いた通り、私はそこで白い肌のムスリムと真の同胞愛を分かち合い、彼らは一瞬たりとも私に別のムスリムに対する人種や肌の色に関する意識を持たせなかったのです。

“巡礼は私の視野を拡げました。それは私に新しい思考という祝福を与えたのです。聖地での2週間において、私はここアメリカでの39年間で一度も見ることの出来なかったものを見ました。私は全ての人種、肌の色 — 青い目をした金髪から黒い肌のアフリカ人まで — が真の同胞愛を持っていると感じました。彼らは統一されていたのです!一つとして生きていたのです!一つになって崇拝していたのです!そこには「人種的分離主義者」や「自由主義者」はいませんでした;それどころか彼らはそのような言葉の意味すら知らないでしょう。

“その通り、私は過去に全ての白人をまとめて非難しました。しかし私はもう二度とそのような罪を犯さないでしょう。というのも私は今、一部の白人たちは真に誠実であり、黒人の同胞となる能力があることを知っているからです。全ての白人を一括した非難は、全ての黒人を一括した白人の非難と等しく間違っていることを、真のイスラームは私に教えてくれたのです。”

彼を指導者とした多くの黒人たちに対し、アル=ハッジ・マーリクは新しいメッセージを説きました。それは彼がネーション・オブ・イスラーム教団で説いていたものとは正反対のものでした:

“真のイスラームは、人の家族、そして人間社会が完全であるには、の宗教的、政治的、経済的、精神的、そして人種的といった全ての要素、または性質が必要であることを教えてくれました。

“私はハーレム通りの聴衆者たちに、こう言いました。全ての創造主である唯一の神の前に人類が従う時こそ、人類は初めて"平安"に近づくことが出来るのだとこれまでに、そのようなことに関する話はあちこちで聞かれましたが、それに関する実行はほんの少ししか見られませんでした。

危険存在

アル=ハッジ・マーリクの新しい普遍的メッセージはアメリカの支配階級にとって、受け入れ難い悪夢でした。彼は黒人大衆だけでなく、あらゆる人種と肌の色をした知的階層にも受け入れられたのです。彼はプレスにより、常々“暴力を主張する者”、“闘争主義者”として悪魔のごとく扱われていましたが、現実にはその見地においてマーティン・ルーサー・キング博士との歩み寄りを見せていたのです:

“目的は常に一緒でした。それに対するアプローチの仕方においては、マーティン・ルーサー・キング博士による、白人の残忍性と悪に対する無防備な黒人を劇的に表現する非暴力行進と私のそれとに違いはありました。そしてこの国の今日の人種問題情勢を考慮すると、黒人問題の取り組みにおける両極端、つまり‘非暴力’のキング博士、または‘暴力的’な私のどちらが致命的な惨事をもたらすか、はっきりしたことは誰にも分からないのです。”

アル=ハッジ・マーリクは、自身が様々な組織の標的であったことを熟知していました。それにも関わらず、彼は自分が発言しなければならないと感じたことの発言を恐れませんでした。彼の伝記の最後において、まるで自らの碑文を残すかのようにこう述べています:

“社会変革しようとした人々、社会抹殺していったことをっている。そしてもし私がアメリカの体に極めて有害な人種差別という癌の破壊を押し留めることの出来る、意義ある真実を少しでも暴き、そこに光をもたらして死ぬことが出来たのであれば、それらは全て神のお陰である。その過程における過ちは私自身によるものなのだ。

マルコム・Xの遺産

アル=ハッジ・マーリクは暗殺の標的になっていることを知っていましたが、彼は警察の保護を求めることなくその事実を受け止めていました。1965221日、ニューヨークのとあるホテルでの講義の準備中、彼は3人の黒人によって銃撃されました。40歳になる3ヶ月前のことでした。この暗殺にネーション・オブ・イスラーム教団が何らかの形で関わっていたのは明白ですが、多くの人々は複数の組織の関連を疑っており、反黒人運動の傾向があることで知られるFBIも暗殺に関わっていることが示唆されています。私たちがアル=ハッジ・マーリク、そして1960年代初頭の他の指導者たちの暗殺の背後関係を知ることは永遠に出来ないかもしれません。

マルコム・Xの人生は、多くのアメリカ人に多くの重要な影響を及ぼしました。アル=ハッジ・マーリクの死により、アフリカ系アメリカ人の自らのイスラーム的原点に対する関心は非常に高まりました。マルコムの伝記の著者であるアレックス・ヘイリーはその後、アフリカ人ムスリム家族の奴隷経験を描いた小説「ルーツ」を著しました。アフリカ系アメリカ人はますますイスラームに改宗し、ムスリムの名前を取り入れ、アフリカ文化を探求しています。そしてマルコム・Xへの関心は、スパイク・リーの映画「X」により頂点に達しました。アル=ハッジ・マーリクは、アフリカ系アメリカ人、ムスリム、そして一般的アメリカ人の誇りの源泉です。彼のメッセージは、以下のようにごくシンプルで明確です。

“私はいかなる形の差別、分離も信じない。私はイスラームを信じている。私はムスリムなのだ。”

 

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