Home About us Contact
 
Introduceding Islam
Lessons & Lectures Lessons & Lectures
Miracles of Islam
Discovering QuraŽan
Way to Islam
Topics that move
Online Library
Islamic Television
Islamic Links
 
 
 
 
 
   

「イスラーム世界とキリスト教」

~アラブ イスラーム学院を訪ねて~

 

 

吉岡 光人氏
2002年6月1日発行
日本キリスト教団出版局出版「信徒の友」より

 

東京都港区元麻布にある、「アラブ イスラーム学院」を訪問する機会が与えられました。イスラームについての知識は書物やテレビの教育講座などで多少はあったものの、たいへん乏しいものでした。今回、イスラーム教徒の方々、とりわけイスラームの教師の方々から日本で直接話を聞くとことができたことは、貴重な体験でした。

午後三時過ぎに学院に着くと、日本人のスタッフの片山廣さんのご案内を受け、ハマド・アルマジド博士とザキ・モハメッド博士にご紹介されました。お二人に今回の訪問の主旨などをお話していると、廊下から何かを朗誦する声が聞こえてきました。

それは、一日に五回行う礼拝への招きの呼びかけ(アザーン)でした。やがて午後三時半の礼拝の時間になり、学院の方々はみなさんモスクに移動されました。貴重な機会でもありましたので、私たちもモスクの後ろの方で見学させていただきました。

モスクでの祈り

イスラームでは、祈りの前には必ず顔・口・鼻・手・足を洗い、清めてから神の前に出なければなりません。それは神に対する礼儀であり、同時に他者に対する礼儀でもあるそうです。清めの所作も細かく規定されているということでした。

学院の建物の一階から二階にかけて天井の高いモスクがつくられており、その正面はマッカ(メッカ)の方角を向いているそうです。モスクの床は絨毯が敷き詰められ、履物を脱いで中に入るようになっています。一人、また一人とモスクに集まってくるのですが、その最前列に、先に来た人から順に、間をあけないで横一列に座って礼拝が始まるのを待っていました。

時間になって、礼拝をリードする人がアラビア語で祈りの言葉を唱えますと、会衆は一緒に祈りの姿勢をとり始めました。リードする人以外は、誰も口を開きません。黙々と祈りを続けるのです。姿勢は、立ったまま頭を垂れる祈りと、ひれ伏す祈りがあり、それを数回繰り返していました。約五分ほどで祈りは終わり、人びとはまた黙ってそれぞれの場へと戻って行きました。

その祈りの時間は、一言で言うと「静けさ」を感じる時でした。短い祈りの言葉だけがモスクに響き、人びとは完全に沈黙して、祈りに集中するのです。神の前に黙してひれ伏す。それは完全に神に服従する敬虔な態度と感じられました。その敬虔な祈りの姿は本当に心を打つものでした。

実は、祈りの様子を撮影してもよいとの許可をいただいていたのですが、真剣に祈る人びとの姿を後ろから見ながら、同じく神を信じ、神を祈る者として、どうしてもシャッターを切ることはできませんでした。むしろ自然と私も祈りをささげる気持ちになり、自分が慣れている、いつものように手を組む姿勢で神に祈りをささげました。

イスラームにおける人間

アルマジド博士から、イスラームにおける基本的な教理について説明していただきました。

イスラームは、「行為」を大切にします。人間は、自分の思いのままに生きてよいわけではなくて、神の意志に従って生きることが大切にされます。神に服従することを生活の中で実践することが、イスラームの教えの中心にあります。他者に親切にすることや、世界全体に対する配慮、被造物に対しても配慮することが求められるのです。必要がなければ虫を殺すこともしてはならないのだといいます。

一部の人々によって、イスラームは攻撃的な宗教のようにみなされることがありますが、決してそうではない、と強調されました。イスラームの本質は「平和」です。他の宗教の信仰を妨げるようなことは基本的にはありません。第二代のカリフがエルサレムに入った時、キリスト教会を取り上げるようなことはせずに、別の場所にモスクを建設しました。それが現在の黄金のドームであるとのことです。

また、イスラームが最も大切にしている五行について教えていただきました。


一、信仰の告白(シャハーダ)

「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの御使いである」と唱えること。

 

二、礼拝(サラート)

毎日、日の出・正午・午後・日没・夜の五回礼拝をささげること。金曜日は大きなモスクに集まって礼拝をささげること。

 

三、断食(サウム)

イスラーム暦の九月(ラマダーン)の一か月間を断食の月として過ごす。日中は一切の飲食物を取らない。

 

四、喜捨(ザカート)

自分の蓄えた財産の一部(2.5パーセント)をささげること。

 

五、巡礼(ハッジ)

聖地マッカにあるカアバ神殿に巡礼すること。少なくとも一生に一回は巡礼するように定められている。

 

この五つが最も大切な宗教的義務で、イスラーム教徒の信仰生活はみなここに根ざしているそうです。そして、日常生活の中に深くイスラームの教えが浸透しているのです。それはイスラームがこうした宗教的行為を大切にしているからです。

キリスト教徒の信仰生活の類似点

大切な五つの行のことを教えられ、私はキリスト教ととても共通している点を見出しました。

まず、「信仰の告白」の前半部分は、唯一の神以外の一切を、神として拝まないということであり、これは私たちキリスト教徒も最も大切にしていることです。

十戒の第一戒「あなたはわたしをおいて他に神があってはならない」は、私たちの信仰の基本です。唯一の神を信じる信仰を告白することこそ、すべてにまさる事柄であるという点において、全く共通なことなのです。同じ神を信じ、その信仰の姿勢においても共通しているというわけです。

「礼拝」もまた私たちと共通している点です。主日の礼拝以外に礼拝をする習慣は、残念ながら現代では少なくなっていますが、使徒言行録の三章にもでてくるように、初代の信徒たちは日に三度の祈りを大切にしていました。それはその後の数百年間続いた習慣でした。

そうした習慣は次第に守られなくなり、やがて修道院の中だけで続けられるようになっていきました。しかし本来は、キリスト教会も主日の礼拝以外に、一日数回の祈りの時間を大切にしてきたわけです。

十六世紀に始まった宗教改革の運動は、主日礼拝の遵守と共に日毎の祈りの習慣を回復しました。祈る習慣そのものが守られなくなっていた時代に、プロテスタントの教会では日々の祈りと主日の礼拝を遵守することを信仰上の最も大切な事柄と考え、失われていた習慣を回復したのです。

そのように考えてみますと、キリスト教会にとっても、実は日毎の祈りの時間は大切なものであるはずなのです。その点でイスラームは、一日の生活の中でなにより祈りの時間を大切にしている、それを生活の中心においている、それはむしろキリスト教がみならうべき点だと感じられました。

礼拝を一日に五回も行うことで、日常生活に支障をきたすことはないのかと質問してみました。
「いや、そういうことはありません。一日の生活の中で神を思い出して礼拝することは、むしろ心と身体とを休め、リフレッシュする効果もある」ということでした。

また、絶対にモスクに行かなければならないわけではなくて、それぞれの仕事場で一人用の絨毯を敷いて、マッカの方角に祈ればいいそうです。一人一人が神に心を向け、神にひれ伏す時間を持つことが大切なことのようです。

そう考えてみますと、私たちも教会だけでなく家庭や職場で、祈る習慣を回復することは決して困難なことではないように思われました。

「断食」、この習慣も、現在では一般には消えつつある習慣だと思いますが、元々は大切な事柄でした。レント(四旬節)の間に肉食を断つことや、金曜日や受難週に断食することの意味をキリスト教会は大切に考えてきた歴史があります。現在でも東方教会やローマ・カトリック教会の敬虔な信徒たちは、こうした習慣を続けています。

プロテスタント教会では断食の習慣はありませんが、この飽食の時代にあって、断食というものを、それぞれの信仰生活の中で考えてみるべき必要があるようにも思えました。

「喜捨」も神への感謝の献げものという意味で共通点があります。イスラームでは自分の財産のうち2.5パーセントをささげるそうです。

「巡礼」、プロテスタント教会では、キリスト者の一生が巡礼の旅だという考えから、いわゆる巡礼の習慣は止めてしまったのですが、ローマ・カトリック教会では現在でも続けられている習慣であり、さかのぼればこれもまた古代教会に行き着きます。

こうした五つの行の一つ一つが、実はキリスト教と共通点が多いことを発見すると同時に、キリスト教会がかつては持っていたけれども失ってしまったような習慣も、イスラーム教徒は失うことなく続けている、ということを知らされました。

プロテスタント教会とイスラーム

キリスト教会は多様な教派からなっています。聖書という正典は共通ですが、その解釈に関しては差がありますし、教会の組織や制度についてもかなり違っています。そして礼拝の形式に関しても、エキュメニカル運動の成果でかなり一致するところが出てきたとはいえ、まだ幅があります。

そんなことをめぐって、アルマジド博士との会話の中でこんな興味深いやりとりがありました。


アルマジド博士

 

「モスクには、教会のようなイコンやキリスト像のような立像がないことにお気づきになったと思います」

 

 

「いや、私たちの教会にもイコンや立像はおいていません。プロテスタント教会は大抵そうです。ただ十字架がかけられているだけです」

 

アルマジド博士

 

「それは興味深いことです。それから、イスラームには教皇のような特別な身分の人がいません。イスラーム教徒は神の前にみな平等です。神とその人との直接的な関係が大切なのです。罪を告白する時も、その人は誰か他の人に告白するのではなくて、直接神に告白するのです。この点はキリスト教会とは違いますね」

 

 

「プロテスタント教会も特別な身分の人はいません。私は牧師という職務にありますが、それは身分ではないのです。神の前では全く一般の信徒と同じです。プロテスタント教会は、神と個人との直接的な関係を大切にしますので、罪を告白する時も、基本的にはその人が神と一対一になって告白するのです」


この会話で、キリスト教にもいろいろな立場や考え方があることをお話しできたのですが、それよりも私自身が驚いたことは、宗教改革者たちが主張した考え方がイスラームにとても似ていたと言うことです。

「神の前の平等」、「偶像を一切斥ける」、「礼拝を最も大切にする」、「神と個人との一対一の関係」-イスラームの考え方がキリスト教神学に何らかの影響を与えて宗教改革につながった、ということも考えられることでありましょうし、もっと単純に考えるならば、「神だけを神とする」という信仰の基本に立ち戻れば、これらのことが必然的に似てくるのかもしれません。

互いに理解し合うために

私は今回の訪問において、イスラームとキリスト教との違いよりも、むしろ多くの共通点を見ました。
「わたしたちは『アブラハム的宗教』(ユダヤ教・キリスト教・イスラームがすべてアブラハムという共通の根を持っているという考え方)に属するものとして、もっとお互いを知り合う必要がある」

アルマジド博士の言われたことは、そのとおりだと思いました。

今回の訪問で、初めて肌でイスラームを感じることができたと同時に、これまで、どれほど日本の社会がイスラーム教徒とイスラームそのものに対する誤解と偏見を持っていたかを痛感させられました。そして残念なことですが、私も含めて、キリスト教会もまたイスラームに対して正しい理解をしているとは言いがたい歴史を持ってきました。今もなおそうした現実があります。

今日の世界情勢の中で悲しい出来事は毎日のように続いています。とりわけ、キリスト教・ユダヤ教・イスラームの三つが絡んだパレスチナ問題は深刻です。それぞれの言い分、それぞれの主張があって、たがいを非難しています。しかし私たちも偏った報道や少ない知識で先入観を持つのではなくて、もっとイスラームの人たちと出会い、理解し合うプロセスを踏む必要性があると感じました。

イスラミック・センター・ジャパンから出されている小冊子『神の預言者たち』の最後のページに、こう記されていました。
「我々イスラーム教徒は、すべての神の預言者達の真実を信じ、イブラヒーム(アブラハム)やムーサー(モーセ)、イーサー(イエス)の教えに忠実に従っている人々に大変親しみを感じるのである」

 


2004年 アラブ イスラーム学院